その時、彼は無職だった!かめぴょんの結婚式!~山岡家と幸せな家庭~
24歳で結婚しまして、あれから15年の月日は流れて39歳になりました。
そこで、最近僕の事を知ってくれた方もいると思いますので、15年前に僕がどんな結婚式を行ったかを書いてみようと思います。
タイトルにもありますが、僕は結婚式の当日「無職」でした。
そして、結婚式当日もなかなかなトラブルがありました。
そんなこんなを振り返ってみようかと思います。
あとこのブログで伝えたいのが「山岡家」は絶対に美味しいということです。
15年前のあの日…僕は無職だった
15年前に僕は結婚式を挙げました。
あの時祝福してくださった皆様、本当にありがとうございます。
事の発端は、2007年3月です。
僕は札幌のセンチュリーロイヤルホテルという式場で予約を済ませました。
そして、衣装合わせ等も済ませていよいよ式まで1ヶ月だと思っていた時に、ふと新聞を読んでいたら
センチュリーロイヤル民事再生を申請!!
まさかの経営破綻
民事再生なので、僕の結婚式に特に影響はありませんがなんとも縁起悪い。
とは言うもこちらは新婚夫婦、ワクワクが止まりません。
気を取り直して、新婚旅行を考えに考え抜いて沖縄に決め申し込みました。
「沖縄マップル」も購入し意気揚々としていた頃に、ふとニュースを見ていたら
那覇空港炎上!!
そして、僕個人はとい言うと、結婚式直前に会社を辞めるという、とんでもない状況で結婚式を迎えました。
来てくれた方、全員をだましました!
よく結婚してくれたなぁ…
アルバイト生活「地獄のヤマザキパン」
結婚式直前に会社を辞めてしまったため、僕は家で何をしていたかと言うと、自分の結婚式で流す映像編集をしていました。
それを引き算しても、あまりにもお金がなさすぎるので「短期バイト」をしていました。
正社員からニートになりましたが、なんとかフリーターまではレベルアップしました。
そこで選んだのが「ヤマザキパン工場」での短期バイトです。
ただ、僕はこの時知らなかったのです。
ヤマザキパンのアルバイトが地獄的であると言う事を…
インターネットでは「過酷すぎる!」と「言う程でもないでしょ」と、二つの意見に分かれますが、それは二つとも正解なのです。
なぜなら、配置される課によってその地獄度が決まるからです。
ちなみに、最も過酷なのが「和菓子課」です。
(今はどうかわかりません。15年前の話です)
ちょうど、お彼岸の時期だったので「お団子」「中華まん」「蒸しパン」の需要が高まるので、その製造スタッフを短期で募集していました…
ヤマザキパンはすごかったです。
中学生の頃に習った「マニュファクチャ(工場性手工業)」というやつです。
仕事内容は、夜7時から朝6時まで11時間立ちっ放し(休憩1時間あり)で、ひたすらベルトコンベアの前で「蒸しパン」の底の薄っぺらい「紙」をひいていました。
他にも、肉まんの底の「紙」をひいていました。
または、コンビニで売ってる団子の透明容器を開けたとき表面についてる「透明フィルム」をひき続けました。
そして!
アルバイトの大学生にアゴで使われるます。
単純作業と言うのは、時間が地獄的に長く感じるのです。
自分の前にベルトコンベアが1分間に3回止まるのですが、1分間がまるで永遠に感じるのです。
まるで「さいの河原」のようです
更には、慣れない仕事で流れについていけずに、ベルトコンベアを止めてしまうと…
[chat face=”man3″ align=”right” border=”blue” bg=”blue” style=”maru”]おい!
誰だー!!
ベルトコンベア止めたやつー-!![/chat]
はい、スイマセン!!
僕です!
[chat face=”man3″ align=”right” border=”blue” bg=”blue” style=”maru”]気をつけろよ!![/chat]
と、正社員ではないなんかベテランのバイトリーダーみたいなオジサンに怒られるのです。
そしてこの世界では、僕よりベルトコンベアの方がヒエラルギーが上であると言う事を実感したのです。
このように、これから結婚して新しいスタートを切るぞと言うのに、とにかく幸先が悪いスタートでした。
人生ゲームで例えると、コマ(車)と人(棒)が足りなくて「しょうがねぇなぁ…」と
消しゴムとつまようじで代用した状態くらいの幸先の悪さです。
結婚式当日
幸先の悪いスタートでしたが、結婚式当日はやってきました。
リハーサルを終え、列席者の皆様が待っているチャペルの扉の前に立ちました。
さぁ、もう入場ですという、その時に嫁がトイレに行っておきたい言い出しました。
もう一度言いますが、控室ではなく皆が待っているチャペルの扉の前でです。
僕は廊下でひとり…
タキシード姿でブーケを持って待っていました…
そして、どこかそわそわしながらウロウロしていました
タキシードを着て、まるで怪盗のように
しかも!
のりのりなスタッフが
[chat face=”man3″ align=”left” border=”blue” bg=”blue” style=”maru”]本番いきまーす[/chat]
[chat face=”woman1″ “align=”right” border=”red” bg=”red” style=”maru”]待ってくださーい!
新婦お手洗いでーす![/chat]
と、チャペルに響く大きな声で高らかにご発声。
これはブーケを武器に戦えという合図なのか?
そのような気持ちの中、本番を迎えました。
緊張しきっている僕ですが、参列者を眺めているととても顎がしゃくれた友人が来てくれていました。
その顎を見ていたら、なぜか少しリラックスできたのです。
きっとマイナスイオンが出ているのかと思いましたい、後日その友人に
と聞いたら、彼は「ストレスだよ」と答えていました。
さて、続いて「誓いの言葉」と言うものがあります。
僕は「人前式(じんぜんしき)」という形式を取っていたので、神様にではなく「来てくれた人の前で誓いをたてる」という流れになります。
ホテルのスタッフに台紙(カンペ)を渡されるんですが、なんと僕の名前が間違って記述されています。
これはブーケを武器に戦えという合図なのか??
こうして、無事(?)に挙式を執り行う事が出来ました。
披露宴での上司の挨拶
そして、披露宴の開始です。
挙式程の緊張感はなく、心穏やかに順調に進んでいきました。
まず、披露宴って新郎新婦は本当に料理を食べる暇がない。
あれこれお酌しに皆様がくるわけで、今はもうそういうのないと思いますが、15年前は「お酌してもらったら絶対に飲むのが礼儀」みたいな空気感がありました。
さて、結婚式と言えば新郎新婦の会社に上司からの挨拶と言うものがあります。
そうです、僕は無職なので会社の上司と言うものがいません。
当時、僕は仕事とは別に「日本ファイナンシャルプランナー協会」というもの属しており、そこの札幌の副理事長(50歳)に祝辞を頼み込みました。
そして、それを引き受けてくださった副理事長のあいさつは…
[chat face=”man3″ align=”right” border=”blue” bg=”blue” style=”maru”]彼はとてもまじめで、仕事熱心です。
ですが、これからは仕事ばかりしないで、家族といる時間を大事にしなさいと…[/chat]
無職の僕に「仕事ばかりしないで」なんて、こんなに泣きそうになるスピーチは生まれて初めてです。
余興でのサプライズゲスト!
順調に披露宴は進んでいき、友人達の余興が終わりました。
僕は嫁に「どうしてもトイレ行きたい」と言い、会場を出ました。
そして、余興のサプライズゲストとして「新郎」が登場したのです。
レミオロメンの「3月9日」をアコースティックギターで弾き語りました。
その時です!!
僕の歌を全く聞いていない祖母が、新婦にお酌をしにいき、なんか色々話しかけていました。
おそらく、歌っているのが孫だと言う事に気がついていないのでしょう。
これはギターを武器に戦えと言う合図なのか?
そして、それに気が付いた母が祖母をはがいじめにして家族席に引きずって行きました。
皆さんは見たことあるだろうか?
新郎が歌いあげている、その対面で「祖母が母に引きずられる」という余興を…
これはギターを武器に戦えと言う合図なのか??
とりあえず、なかなかすごい披露宴でした。
こうして、無事に披露宴は終わりました
2次会について
披露宴も終わり、友人たちの主催してくれた二次会にも参加しました。
当時は24歳だったので、体力も有り余っていたため「3次会をやろう!」と言う事になり、3次会はバーに行きました。
そして、僕は3次会のバーに行く途中、嫁ぴょんを置いて「山岡家」に行きました。
山岡家とは、北海道を中心に展開されている好き嫌いがはっきり分かれ、お店がとんこつ臭い中毒性のあるラーメン屋である。
しかも、山岡家の中でも最も臭い山岡家(狸小路店)で異臭の歓迎を受けながら、食券を買いました。
もちろんピリ辛ネギ醤油です。
僕は友人二人と山岡家の匂いを、まるでソムリエの如く堪能し「山岡家の一杯一杯に歴史があるよね」と言うわけのわからない会話をし、茹で上がる時間を待っていました。
その茹で時間に、僕がいかに山岡家を愛しているか。
なぜ新婦を置いてまで山岡家に来るのかを語っていました。
そして、7分間の長いようで短い茹で時間を終え「お待ちどうさま」の掛け声で僕の目の前に差し出された一杯のラーメン。
なんと、会話を一部始終聞いていた店員が「味玉子」をトッピングしてくれたのです。
素晴らしい、エピソードだと思いませんか??
でも、僕は本当は「味玉子」が大嫌いなのです。
どうしたの!!
その後、3次会を終え結婚初夜を立派なホテルで過ごすことになりました。
とてもグレードの高いホテルでの一泊でしたが、ベットに入るや5秒くらいで寝ました。
15年経った今思い出しても、どんな部屋だったのかまったく記憶に残っていません。
こうして、幸せな結婚式を終え新婚旅行に行く僕らでした。
あとがき
嫁ぴょんを置き去りにして、三次会を抜けて山岡家に行ったことは少し怒っていました。
しかし、怒っている理由は「私も山岡家食べたかった」でした。
大丈夫だよ、君のために「サービス券」は全員分回収してあるから。
あれから15年間色々とありました。
東京でも働いたし、仙台でも働きました、転職も3回しました。
今ではお金の心配しなくていいようになれましたが、20代の頃はとにかくお金がありませんでした。
嫁ぴょんには本当にお金の面で苦労させたと思います。
付き合い始めた大学生の時から、僕らはよく山岡家でデートしていました。
「好きな人とおいしいものを食べる」と言う事が、どれだけ大切な時間であるのかを15年経った今も実感しています。
15年前は二人だったど、今は家族4人で山岡家に行っています。
好きな人と山岡家に行くのって本当に幸せですね。
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なんとなく、ハートウォーミングな感じでおわりますが、この結婚式の翌月以降に僕は家賃滞納をして督促の電話が鳴りやまなくなりました。
なんで余計なこと言うんだよ!!